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リッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦(リッチモンド・ピーターズバーグほうめんさくせん、英:Richmond-Petersburg Campaign、またはピーターズバーグ包囲戦、英Siege of Petersburg)は、南北戦争の1864年6月15日から1865年3月25日にかけて、バージニア州ピーターズバーグ周辺で行われた一連の戦闘である。一般にはピーターズバーグ包囲戦と呼ばれるが、町が完全に包囲されて物資の供給も遮断されるような古典的な意味での軍事包囲戦ではなかった。10ヶ月にもおよぶ塹壕戦であり、北軍の総司令官ユリシーズ・グラント中将がピーターズバーグを攻撃させて成功せず、続いて塹壕線を構築させて、最終的には町の東部と南部の郊外に30マイル (48 km)にも及ぶ戦線を作り上げた。ピーターズバーグは南軍将軍ロバート・E・リーの軍隊、およびアメリカ連合国の首都リッチモンドにとって、重要な供給拠点であった。 リーは最終的に圧倒的な圧力に屈した。これは供給線が遂に遮断されて、本当の包囲戦が始まった時であり、1865年4月にリッチモンドとピーターズバーグ両市を放棄し、アポマトックス方面作戦での撤退と降伏に繋がった。ピーターズバーグ包囲戦は第一次世界大戦では通常のものになった塹壕線の先駆けとなり、軍事史の中でも顕著な位置付けを与えられている。またアフリカ系アメリカ人の部隊を戦争に大量に集中して投入したことにも特徴があり、クレーターの戦いやチャフィン農園の戦いで大きな損失を出した。 人口18,000人の繁栄する都市ピーターズバーグは、南軍の首都リッチモンドにとって物資の供給拠点であり、リッチモンド市の直ぐ南という戦略的な位置にあり、アポマトックス川沿いにあることからジェームズ川に船で航行可能であり、重要な道路の交差点で5本の鉄道の結節点という役割があった。北軍にピーターズバーグを取られた場合、ロバート・E・リーがリッチモンドを守り続けることは不可能だった。 市に対する攻撃は北軍がコールドハーバーの戦いで敗れた直後に始まった。グラントはピーターズバーグからリッチモンドを占領することに決め、6月15日にリーの目を掠めてジェイムズ川を渡ることで北軍の配置を始めた。このことはその前のオーバーランド方面作戦の時とは戦略が変わってきたことを示していた。以前はリー軍に対峙し会戦で打ち破ることが主要目標だった。この時グラントは地理的かつ政治的な目標を選定し、その勢力で勝る資源を活かせばリー軍を包囲し、釘付けにし、飢えさせて降伏に追い込むか、決戦に誘い出せるということが分かっていた。リーは当初、グラントの主目標がリッチモンドであると考え、ピーターズバーグの防衛にはP・G・T・ボーリガードに任せた最小限の部隊しか充てていなかった。 方面作戦の開始時、グラントの北軍はジョージ・ミード少将のポトマック軍とベンジャミン・バトラー少将のジェイムズ軍で構成されていた。ポトマック軍には次の軍団が含まれた。 る。 リーの南軍は自身の北バージニア軍と、P・G・T・ボーリガード指揮下でリッチモンドを守る散開し、組織化されていない1万名の少年と男の集団で構成された。北バージニア軍は5個軍団で構成された。 騎兵軍団、ウェイド・ハンプトン少将指揮、フィッツヒュー・リーおよびW・H・F・"ルーニー"・リー各少将の師団 ボーリガードのノースカロライナおよび南バージニア方面軍は、ロバート・ランソム・ジュニア、ロバート・F・ホークおよびウィリアム・H・C・ホワイティング各少将とアルフレッド・H・コルキット准将の消耗した師団があった(方面作戦の後半でボーリガードの方面軍は拡大され、ホーク少将とブッシュロッド・ジョンソン少将の師団に再編された。)。 グラントの軍隊はこの方面作戦の先物取引 、戦力は変化したものの、リー軍よりかなり多勢であった。市への最初の攻撃時、北軍15,000名がボーリガードの5,400名と対峙した。6月18日までに、北軍勢力は67,000名を越え、対する南軍は20,000名だった。方面作戦全体の典型的な姿として、7月半ばに7万名の北軍がピーターズバーグ周辺の南軍36,000名と向かい合い、バトラーの4万名はリッチモンド周辺で南軍21,000名と対峙した[1]。北軍はオーバーランド方面作戦の間に恐ろしいほどの損失を受けたが、兵員や装備の補給が可能であり、ワシントンD.C.の守備隊を使えるという利点も利用し、またアフリカ系アメリカ人兵士を使えるようにもなっていた。包囲戦の終わりまでに、グラント軍は125,000名を持ってアポマトックス方面作戦を始められた[2]。対照的に南軍は、戦闘、病気および脱走で失われた兵士を補充することが難しかった。 6月9日、北軍ベンジャミン・バトラー少将は約4,500名の騎兵と歩兵を、2,500名が守るピーターズバーグに送った。バトラーの歩兵がピーターズバーグの東にある塹壕線の外郭に回り込むと見せて、カウツの騎兵師団はジェルサレム・プランク道路を経由して南から市内に入ろうとしたが、市民軍に撃退された。その後バトラー隊は撤退した。この戦いは地元住民から「老人と少年達の戦闘」と呼ばれた・6月14日から17日、先物取引 はジェイムズ川を渡り、バトラーの攻撃を支援し再開させるためにピーターズバーグに向けて前進し始めた。 ミードのポトマック軍はウィンドミルポイントで、輸送船と長さ2,200フィート (670 m)の舟橋を使ってジェイムズ川を渡った。攻撃を恐れたボーリガードはブッシュロッド・ジョンソン少将の部隊をバミューダ・ハンドレッドから呼び寄せ、ホークの部隊がリー軍から到着し始めたので、防衛軍の勢力は5.400名になった。バトラーの先遣隊(スミスの第18軍団、ヒンクスの歩兵師団とカウツの騎兵隊)がアポマトックス川をブロードウェイ・ランディングで越え、6月15日にピーターズバーグ防衛軍を攻撃した。ボーリガードの部隊は最初の塹壕線(ディモック線)から追い払われ、ハリソン・クリークまで後退した。暗くなって第18軍団は第2軍団と交代した。6月16日、第2軍団は南軍防衛戦の別の部分を占領した。6月17日、第9軍団がさらに陣地を前進させた。ボーリガードは市を守るためにバミューダ・ハンドレッドのハウレット前線を放棄し、リーは北バージニア軍から支援隊を急派させた。第2、第9および第5軍団が6月18日に日経225 したが、大きな損失を出して撃退された。ボーリガードは、宿営地で多くの焚き火を燃やしたり、木製の偽の大砲を作ったりと手の込んだ見せかけで、実際よりも部隊兵が多く大砲も多く持っているように信じ込ませたので、北軍の指揮官達は攻撃を続けることを懸念していた。この時までに、南軍の工作に多くの人員が投入されており、包囲戦なしでピーターズバーグを占領する大きな機会が失われた。戦闘の初日に北軍がしくじったために、様相は長引く包囲戦に移行した。 6月21日、北軍第2軍団が第6軍団の支援を受けて、ピーターズバーグ市に入る主要な供給線の一つである市の南のウェルドン鉄道を遮断しようとした。この動きに先行してウィルソンの騎兵師団が軌道の破壊を始めた。6月22日、A・P・ヒル軍団のウィリアム・マホーン准将に率いられた部隊が反撃し第2軍団を鉄道から追い出してジェルサレム・プランク道路まで退かせた。北軍はその前進した陣地からは駆逐されたが、包囲線をさらに西に拡げることができた。 6月22日ウィルソンとカウツの騎兵師団がピーターズバーグのFX 初心者 線から南軍の鉄道通信線の妨害に派遣された。ディンウィッディー・コートハウスを過ぎて襲撃隊はその夜にフォード駅近くでサウスサイド鉄道を遮断し、軌道、鉄道の建物および運搬列車2両を破壊した。6月23日、ウィルソンはリッチモンド・アンド・ダンビル鉄道のバーク駅にある結節点に達し、ノットウェイ・コートハウスとブラックス・アンド・ホワイツ(現在のブラックストーン)の間でルーニー・リーの騎兵隊と遭遇した。ウィルソンはカウツに追随してサウスサイド鉄道沿いに進み、進軍しながら約30マイル (50 km)の軌道を破壊した。6月24日、カウツがバンカービルで小競り合いを行っている間に、ウィルソンはリッチモンド・アンド・ダンビル鉄道のメヘリン駅に至り、軌道の破壊を開始した。6月25日、ウィルソンとカウツはストーントン川橋の南で軌道を剥がし続け、橋の破壊を妨害した市民兵によって遅延させられた。リーの騎兵師団が北東から北軍に接近し、橋を確保して破壊しようという北軍の試みを諦めさせた。このときまでに、襲撃隊は北軍の戦線から100マイル (160 km)近くも離れていた。 ルーニー・リーの騎兵師団が6月25日にストーントン川橋の破壊に失敗したウィルソンとカウツの襲撃隊を追跡した。ウィルソンとカウツは東に向かい、6月28日、ダブルブリッジズでノットウェイ川を渉り、北のウェルドン鉄道のストーニー・クリーク操車場に向かった。そこでウェイド・ハンプトンの騎兵師団の攻撃を受けた。その日遅く、ルーニー・リーの騎兵師団がハンプトンの部隊と合流し、北軍は激しい圧力を受けた。夜の間に、ウィルソンとカウツは撤退し、ハリファックス道路を北へ進んで安全地帯と考えられるリーム駅を目指した。この時、北軍の襲撃隊に避難場所を求めていた多くの逃亡奴隷を置き去りにした。